夏の続き
昼休みの喧騒を尻目に、伊能は一人、頬杖をつきながらノートにシャーペンを走らせていた。言うまでもなくこの夏の記録をつけていたのだ。濃密な時間を記すには夏休みが終わってもなお、時間が足りない。自分がどう感じたのか、その時の相手の動きはどうだったのか。小堀から借りた資料や、両親に頼んで録音してもらったラジオ、その他諸々を参考にしながらプロットの前段階のようなものを立てていく。 つ、と汗が額から流れた。九月も半ばとは言え、暑い。公立高校である横浜霜葩高校では順次クーラーの導入がされているが、その恩恵は一年生の教室まではまだ届いていない。まして伊能の席は窓際の一番後ろの席。カーテンを閉めていたとて熱が直に伝わってくるようだった。 安定感を求めて買った紙パックの紅茶も汗だくで、ともすればノートを濡らしてしまいそうだった。知らず、舌打ちが漏れる。 ふと、影が落ちた。次いでこの暑さになる少し前から親しむようになった柔軟剤の香り。わ、と周囲が一瞬騒いで、すぐに元の喧騒に戻っていく。 「伊能、今少し空いているだろうか」 「……桐山先輩」 椅子に座っていると首が痛くなるほど見上げなければならない、この夏を濃密に過ごした先輩が、少し余裕のなさそうな表情で立っていた。大会の前であれば、用があれば廊下で大人しく待っていたというのに。一つの大きな出来事を経て、大型犬のようだった先輩はなんだか遠慮というものを何処かに忘れてしまったようだった。別にそれは、伊能にとって不快ではないのだけれど。同級生の立場にしてみれば、少し緊張するのかもしれないと思うと愉快ではあった。 「……まあ、すこしなら」 言いながらペンを筆箱に戻し、ノートをカバンに戻す。桐山はその様子を見届けると、足早に教室を出ていく。 向かうのはきっと、部室だろう。伊能はさして焦ることもなく、廊下の角に消えていく桐山のあとを追った。
ミーンミンミンミー。教室の騒がしさから離れるとセミの鳴き声が未だ顕著に聞こえる。各部活とも大きな大会を終え、昼休みの部室棟は少し前のざわめきを忘れたかのように静まり返っていた。聞こえるのは蝉の声と、自分が床を踏む時のジャリジャリとした音。 蒸れた匂いがする部室の窓を先んじて開けていた桐山は、部室に入った伊能に向き合う。 「どうしたんですか、わざわざ呼び出すなんて」 「頼みたいことがあってな」 窓が開いていても、校内の南西に位置する部室棟はよく日が当たって暑い。プレハブであるからなおさら。風が通る、といってもその効力は微力だった。馬鹿みたいに汗が流れる。それでも伊能は、ここよりいくらかは涼しい教室に戻ろうとは思わなかった。そんなことよりかは目の前の、魔王で野球に一途でいじらしい、この濃密な季節を過ごした先輩の頼みのほうがよほど気になった。 彼らが正式に引退するのは、あと数日。受験勉強に力を入れ始めるだろう彼に、どんな頼み事をされるのだろう。どうせ野球絡みなのだろうけれど。予測の範疇はきっと外れない。退屈を避ける伊能が、それでもいいと思えるのは。 「なんですか」 「……週に一度でもいい、キャッチボールに付き合ってくれないか」 「いいですよ」 「本当か!?」 安静を、と指示されたことは、よく知っていた。彼が野球を、どういう形であれ続けたいのであれば。一日三球どころの制約ではない。しっかりとした休養が、この夏を過ごした彼には必要だった。それでも、……それでも、だ。野球から、離れてしまえば。ほんの一ミリでも離れてしまえば、彼はきっと彼らしさを失ってしまうのだ。それは伊能にとって、本意ではなかった。彼には理不尽でいてほしかった。あの夏、死ぬ気で止めろと言ったように。傍若無人で、どこまでも真摯で、無茶でいてほしかった。口には出さないけれど、子どものように無邪気に野球を愛する彼に、いつの間にか絆されていた。だから、一も二も無く答えてしまった。 「まあもちろん、全力は無理ですけど。俺も怪我したくないですし」 「む……まあそうだな、我慢しよう」 「先輩はいつもどこで勉強を?」 「三階の自習室だ」 「ではそこに迎えに行きますよ、気が向いたら」 「ああ! 待っている」 未だ連絡手段を持たない彼だが、場所さえ知っていれば特に問題はない。どうせ他の野球部の先輩だって気にかけてくれているのだろうから、誰かしらに連絡を入れればすれ違いすら起きないだろう。 「それで、他にも用があるんでしょう」 「……よく分かったな」 「伊達に先輩のことを見ていませんよ」 「……す……、」 「す?」 「っ連絡先を! 教えてくれないだろうか……」 「先輩の連絡先なんてご実家の電話番号くらいなのに」 からかうようにそう言えば、大きな身体をきゅうと縮こませて桐山はこちらを見た。ふ、とどうしようもなく笑みがこぼれる。分かりやすい先輩のこと、す、の続きなど手に取るように分かったけれど。 「いいですよ」 近くにあったメモ用紙代わりのプリントの裏紙と鉛筆を手に取る。住所と、家電と、ケータイの番号。きっちりと書いて、大きな手に渡してやる。 恋愛感情など、やっぱり分かる気がしない。好きだ、楽しい、面白い。そういうことなら分かるけれど、誰かを特別に……? そうやって想う、誰かを恋い慕う気持ちというものは一生分からないのかもしれない。けれど目の前でメモ書きを嬉しそうに胸ポケットにしまう先輩のことは、優先順位を五本の指のうちに入れてもいいと思う程度には特別に思えた。 ありがとう、と言う桐山の言葉に予鈴が重なる。 「そろそろ戻りましょうか」 「そうだな」 「いつでも連絡してきていいですからね」 「本当に?」 「トクベツ、ですから」 ぽ、と顔を赤くした先輩に、伊能は笑みを深める。夏が終わったとして、こんなに面白い人のことを放っておけるほど伊能の秋は充実していないのだ。
2026/04/04